夜と霧の感想

ウィーンに生まれたフランクルは「生きる意味とは何か」を追い求めて精神科医になる。第二次世界大戦ナチス・ドイツによってオーストリアが併合されると、ユダヤ人であるフランクルも1942年に強制収容所に送られる。「119104」という番号の被収容者となったフランクルは、過酷な肉体労働、想像を絶する劣悪の環境のもとで、希望を失わずに生きようとする人々の姿と、その人間精神の気高さに注がれた。−その記録が「夜と霧」である。
「基本テーゼの人生に意味を見出すものではなくて、人生から問われるもの。それに対してどう返すかだ。」の物事の見方が180度に変えさせられるこの言葉が胸をうった。この言葉でまず、思い出したのがマザー・テレサの「この世で最大の不幸は戦争や貧しさでも病気でもありません。人から見放され自分が誰からも必要とされないと感じる事です。」をまず思い浮かべた。これが人生の中で"誰か"が待ち、実現しなければならない"何か"が自分にあると人生から問われれば自ずと生きる糧に成りうる。今、何も価値を見出なくてもだ。
あと、これにより幸福とは、追い求めるものではない。求めれば求める程、永遠の欲求不満を招く。だから、追い求めるを辞める。しかし、投げ捨てるのではなく仕事に没頭し、愛する人を精一杯愛せば幸福はもう手元に訪れる事になるこの「自分の欲望や願望中心の生き方」から「人生からの呼びかけに応えていく生き方」「生きる意味と使命中心の生き方」に転換させられる事で際限ない人間の欲望、欲求の脱却が新鮮だった。欲望や欲求は生きる為のエネルギーにもなるが破滅にも繋がるのでこの生き方をよく考えていきたいと感じた。
「自分の人生の意味」を見つけていくのは、そう簡単ではない。そこでフランクルは、自分の人生に与えられている意味と使命を見つける為のヒントとして「三つの価値」を示しました。それが「創造価値」「体験価値」「態度価値」です。「創造価値」は創造活動や仕事を通して実現される価値のことです。仕事の大きさや社会的価値が問題ではなくて「自分に与えられた仕事にどれだけ最善を尽くし、どれだけ使命を全う出来るか」が重要。−何気ないものでも意外と影響を与える。
「体験価値」は、自然とのふれあいや人との繋がりにより実現される価値。「何か」「誰か」によってもたらされる価値は強烈に深く心に刻まれる。その体験で究極体験価値の一つが「愛」。この強烈な想い。深く愛し、愛し合えた思い出があれば人は救われる。これは当たり前と言えば当たり前なのだが大切な事だなと思いました。
「態度価値」は、自分では変える事も抗う事も出来ない問題に直面した時にどのような態度をとるかによって実現される価値。人は悪魔にも天使にもなれる。だけど、他人を想い、考える力、気持ちを見失わない「態度価値」は何物にもかえる事が出来ない。大切で持ち続けなければならない。人が人である為の最終ラインであり、人間が持っている崇高なる精神性にもたらされる価値。利他的である。利己的ではなく他者を思いやる相手を思いやる相手本位の心。尊厳も人としての権利、何もかも奪われようともこの残る心は何とも美しい。 寄生獣の「ある日道で…道で出会って知り合いになった生き物がふと見ると死んでいたそんな時なんで悲しくなるんだろう」に対してミギーが言った「人間がそれだけヒマな動物だからさだがなそれこそ人間の最大の取り柄なんだ心に余裕(ヒマ)がある生物なんとすばらしい」を思い出した。フランクルが過ごした強制収容所で生きる為に感情を殺す。「無感動」「無関心」「無感覚」慣れ、適応能力という欠落にも成り得る武器で心を保った状況とこの漫画の内容がシンクロして深く刻まれました。
悩む事。何も感じられない事は人間性を失う事。だから、悩み、苦悩があるのは異常では無い。ニーチェの「苦悩そのものが問題なのではない。「何のために苦悩するのか」という叫びに対する答えのないことが問題なのである」。自己目的の苦悩を超越させ、その苦悩は本来的、客観的、全体で俯瞰して見る事で「誰かのため」「何かのため」の苦悩に。この意味のある苦悩にする事で大きな前進になるのだ。絶望の淵にこそ見えてくるものがある。何が残り、何を見出すのか。それは己自身にしかない答え。他人が出すものではない。その人生の問いに答えが出せるように全力を尽くすまで。あと、気付いたのは沖縄も独自に生み出した理論があると言うこと。なんくるないさー精神による人生の向き合いと「だからよー」による他人任せでありながらも人生との距離の築き方と間合いの詰め方である。そして、テ−ゲー主義による適当による力の抜き方である。まぁ、そうしなければならない事がこの土地で起きたと言う事だ。カンカラ三線見た時は「あぁ」と感じたのは唄と三線を愛して絶望の淵から希望を見いだそうとした豊かな心を持った人が居たと言う事に心動かされたのだな。